サマルカンドの宿に入ろうとすると、ある親子が僕らにロシア語で話しかけてきた。「日本人かい?韓国人かい?」
 日本人と答えると、「韓国語わかるかい」という。「はい、日本人ですが、韓国語もできます」と韓国語で返答したところ、おじさんが「日本人なのに韓国語ができる?そういう人、初めて会ったよ」と言ってくれた。そして、一緒にいた息子を紹介してくれた。
 家は、宿のすぐ近くに会って、よかったら寄っていかないかという。もう午後10時半だったので長居はできないけれども、少しだけ寄っていくことになった。

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【2014.7.16】親子

 話を聞くとおじさんは、韓国に12年間住んでいたという。京畿道の抱川(포천)にある、繊維工場で働き、7000万ウォン(約700万円)を貯めてから、故郷のサマルカンドに戻り、おばあさんに両親、そして息子と娘が一緒に住むことのできる、中庭のある立派な家を建てたという。立派だと思う。僕にもいつか、そんな親孝行ができるのだろうか。
 おばあさんがコーヒーをいれて持ってきてくれた。そして、おばあさんが直接お作りなったというパンを持ってきてくださった。ロシア語の語彙が豊富ではなくて、「ハラショー」としか言えなかった。
 サマルカンドにやってくる旅行者は、韓国人よりは、日本人の方がずっと多いという。日本人に会うたびに韓国語は分からないかと尋ねていたが、みな分からないといったという。韓国語が分かる日本人に会ったのは、これが初めてだったわけだけれども、もっと韓国語で意思疎通のできる人がサマルカンドにやってきたら嬉しいという。

IMG_5441【2014.7.16】中庭にあるテーブルにて
 
 おじさんは、韓国にいたときに働いていた工場のみんなに会いたがっていた。社長はいい人だったから、また会いたいし、電話でもできたらいいんだがという。しかし、その社長とは今は電話が不通で、韓国のどこにいるのか分からないという。当時の社長の名刺をみせてもらったので、インターネットが使えるところに戻ったら、調べて報告するといったのだが、サーチ力不足なのか社長の連絡先までは突き止めることができなかった。
 そのほか、持っているカメラの価格だとか、東京の一戸建ての価格だとか、そういった話題を盛り上がりながら、時間も時間だからおいとますることにした。
 こちらは特にお土産といえるものもなく、日本から持ってきたお菓子をおいていくことで感謝の意を伝えることしかできなかった。(その、お菓子ですら、そんな気遣いはいらないと言ってくださったのだけれども。)
 異国で10年以上働いたお金で、親孝行をするということ。僕にはそのような覚悟をもてるだろうか、もてそうにもない。もちろん、海外で10年以上働いたからといって東京に一戸建てなんかもてないから、彼とは境遇は違う。けれども、世の中には立派な人たちがたくさんいるんだから、もっと謙虚に生きていかなきゃいけないなと思ったことには、偽りはない。

2014年 夏ウズベキスタン7泊8日
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