宿に戻り、一時間ほど休んでいると、友人が宿に戻ってきた。

ブハラ


 二人で観光することにした。旧市街地の西側にある、アルク(Ark)というもともと城砦だったところに行く。もう、夕方7時にもなるのに依然として明るい。高緯度地域にあるからだろう。7月のブハラで、完全に暗くなるには午後9時を待たなくてはならない。

IMG_5760【2014.7.18】アルク城の外壁

 初め、紀元前5世紀に建てられてから、チンギス・ハンなどといった外敵による破壊と、ブハラの人々による再建が繰り返されたという。ブハラでは最も古い遺構である。

IMG_5759【2014.7.18】アルク城の外壁

 しかし、ロシア軍の攻撃を受けてからというものの、廃墟となり、もはや軍事的な機能は損なわれている。

IMG_5858【2014.7.18】アルク城入口

 もう門を閉めようという時間であったが、警備員は我々を招き入れてくれた。料金は3万スム(約10ドル)だという。僕が宿で休んでいて友人が昼間にひとりでやってきた時とは、料金が全く違う、高いという。話を聞いてみると、3万スムくれたら、立入禁止の屋上へと入れてくれるそうだ。

IMG_5859【2014.7.18】アルク城

 ふたり合わせて6万スム、1000スム札を60枚、警備員に渡す。数えるのに時間がかかったが、枚数が合っていることを確認すると、中を登り、英語で「Entering is strictly prohibited」と書かれている扉を鍵で開けて、中にいれてくれた。そして、20分後にまた鍵を開けに来るといって、施錠された。

IMG_5773【2014.7.18】屋上

 「屋上」という表現が正しいのかは分からない。ある時はここに、ブハラ・ハン国の王族やそれに仕えるものたち総勢2000人程度が暮らしていたという。つまり彼らにとってはここは屋上ではなく、地面だったのだ。その遺構が残っていて、今もなお風化を続けている。

IMG_5808【2014.7.18】城壁

 隅はこのようになっていて、見張りを立てたり、やってくる外敵を攻撃できるようになっている。

IMG_5764【2014.7.18】ブハラの街並み

 ブハラの街並みを望むことができる。

IMG_5787【2014.7.18】電波塔

 電波塔のようなものがみえる。
 時間はそろそろ午後8時というところだが、やっと陽が傾いてきたかという感じだ。

IMG_5790【2014.7.18】外壁の間

 外壁の切れ目から、街並みを望む。滑り落ちたら危険だから立入禁止にされているのだろうか。

IMG_5781【2014.7.18】ポイ・カラーンモスクとカラーン・ミナレット

 ポイ・カラーンモスクとカラーン・ミナレットがブハラの街の中心となっていることが分かる。カラーン・ミナレット、つまり死刑の場が街の一番、目につくところにあるのをみるに、ブハラ・ハン国には恐怖政治で百姓を支配していた歴史もあったのではないかと想像してみる。

IMG_5849【2014.7.18】アルク城

 かつては、写真左側にみえる小さな木造の屋根をもつところに王様は顔を出し、下の広場に集まった民を興奮させたそうだ。

IMG_5814【2014.7.18】屋上

 ところで屋上を歩き回っていると、鉄塔のようなものが立っていたりするのが見える。太古の昔からあったようには思えないが、一体、いつ、何の目的で建てられたのだろう。
 しばらくすると警備員が扉を開けてくれた。

IMG_5837【2014.7.18】王様を謁見した空間

 ここは、王様を謁見した空間だそうだ。王様には背を見せてはならなかったため、退場する時は、一歩一歩、後ずさりしなくてはならなかったという。
 またここに集まった臣下たちは、階級によって、どれだけ王様に接近できるかどうかが決まっていたそうだ。日本や中国や韓国と全く同じである。日本の律令制においても、正一位、従一位、正二位、従二位というふうに個々人に位階が定められていて、天皇に謁見する際は、その位階の別に従い、天皇からの距離が定められていた。

IMG_5855【2014.7.18】王座

 王座を見上げると、鏡がある。人の顔が映る鏡は、偶像崇拝にあたるとして、イスラム建築ではあまり利用されないがここでは利用されている。
 おそらく、禁忌を犯せるほど偉大であるという権威付けの道具なのではないかと思う。ウズベキスタンにおける考え方は、「あのように禁忌を犯しているやつは王様なんかじゃない」ではなく「あのような禁忌を犯してもバチが当たらないとはやはり特別なお方なのだ」ということなんだろう。
 ところでアルク城で、たまたまガイドをしているという男性にあったのだが、中国語が分かるという。これからは、中国の時代だから中国語を勉強しているのだときっぱり言う。実は、ウズベキスタンで中国語を解するという人は、この人が最初であり、最後であった。東アジアからやってきた人をみかけると、「안녕하세요(アニョハセヨ)」あるいは「こんにちは」とだけいい、「你好」とは挨拶をしない。世界のあらゆるところで、日本人や韓国人よりも中国人の存在感の方が大きくなった今、こういうところは特異だと思うのだけれども、ウズベキスタンでもやがて東アジア人の風貌を持つ人はみな「你好」と挨拶される時代がくるのかもしれない。日本人なら漢字が分かるだろ、漢字について教えてくれないか、チャイハネに行こうと誘われるのだが、もう時間も午後8時を過ぎていたし、体調もすぐれなかったから、丁寧に断った。申し訳ない。

2014年 夏ウズベキスタン7泊8日
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