地球の覗き方

地球のことをのぞいてみよう

2016年10月

 カシュガル旧市街へと戻る。

IMG_4555
【2016.9.24】カシュガル旧市街にて

 お土産として紅茶などを買い加え、ユースホステルへと戻る。

IMG_4557【2016.9.24】棗のジュース

 棗のジュースを飲みながら、ノートパソコンにウイグルで撮影した写真を移す作業をする。移したファイルは「隠しファイル」に指定して、見えないようにする。さて、なぜ、このような作業をしなくてはならなかったのか。昨日、同じユースホステルに1日だけ滞在したバックパッカーの日本人からこのような連絡が来たのである。

「キルギスの空港に無事到着しました。午前0時半頃にはチェックインできたのですが、出国審査後、別室に連れていかれました。まずバッグを隅から隅までチェックされました。それから、スマートフォンの写真の検査を要求してきました。断ったところ、 パソコンのパスワードを入力して、内部の写真データを見せることを要求してきました。それも断ると、別室から出してもらえなくなりました。フライトの時間を過ぎてからもかたくなに拒否を続けていたため、軟禁状態。結局、解放されたのは定刻の30分を過ぎてからで、最後の搭乗客となりました。最後の最後で中国の悪い一面を味わって旅立つことになりました」

 カシュガルの空港ではどうやらそういうことが起こり得るというのである。彼は、エア・マナスでカシュガルからキルギスの首都であるビシュケクへと向かう国際線を利用していたことが、厳しいチェックが課された理由になったのではないかと推測されるが、念には念を入れようと思い、ウイグルで撮影した写真を全てノートパソコン内に移して隠しファイル化したのである。撮影した写真には、公安や、警察が写っている写真があるし、ヤルカンド(莎車)という治安当局が外国人の訪問をさほど歓迎していなかった都市(#0495.ヤルカンドで警察に職務質問される)の写真が少なからずあった。
 ところで彼はなぜ、スマートフォンやパソコンの内部の写真データを見せることを頑なに拒否したのだろうか。何か治安当局にとって都合の悪いものを撮影していたのだろうか。彼は極めて一般的なバックパッカーといった風貌で、そういうものを撮影するような旅行者には見えなかった。むしろ、「プライベートな情報をなぜあなたがたに見せなくてはならないのか。そのような必要はない」という、個人的信条から拒否したのだと思う。しかしそこは、日本ではなく、中国なのだ。治安当局に逆らうようなことをして、何の得があるのだろうか。我々は一旅行人でしかないのだ。治安当局がいくら無教養にふるまい、不当だと感じられたとしても、彼らの方が立場が上である。軟禁状態が続けば、航空機に搭乗できなくなるかもしれない。最悪の場合、治安当局に抵抗したことを問題視され刑事罰を科されるかもしれない。そのようなリスクを冒してまで、写真データを見せることを頑なに拒否する必要がどこにあるのだろう。もし日本で警察官がスマートフォンの写真データを見せろと要求したならば、それが公権力による不当な個人情報の暴露だと抵抗はできるかもしれない。しかし、中国でそのような抵抗をして、どういう得があるのだろうか。旅行を支障なく進めることを第一の目的にするならば、全く理にかなっていない。個人の主義主張を貫くことにどれだけの合理性があるかということを検証する必要がある。もちろん、個人の主義主張あるいは旅行スタイルを貫くために、各国の公権力に抵抗したという「武勇伝」を語りたかったのならば「どうぞ、ご自由にどうぞ」と言いたいところだけれども、僕はそういう種類の武勇伝をかっこいい話だとは全く思わない。彼は結局、解放され、飛行機に搭乗できたのだから運がよかったと言えよう。

----------

 昨日、行動を共にした日本人2人はでかけていて、結局、きちんと挨拶ができないままウイグルを発つことになった。僕が早朝から観光をしていたから、彼らに挨拶ができなかったのである。 
 2路バス(#0476.カシュガル空港とカシュガル市内の移動)に乗って、カシュガル空港へと向かう。
 
IMG_4568【2016.9.24】カシュガル空港

 カシュガル空港には飛行機に搭乗する人しか入ることができない。

IMG_4569【2016.9.24】カシュガル空港にて

 結論から言えば、スマートフォンやノートパソコンの内部のデータを見せることを要求されることは起こらなかった。カシュガルの空港の安全検査に厳しい点があるとすれば、全ての乗客が安全検査時に靴を脱いで、靴をX-ray検査機に通さなくてはならないことであるが、安全検査官はスマートフォンやノートパソコンのデータについては気にかけるようなそぶりすら見せなかった。

◀前の旅行記:#0534.アパク・ホージャ墓訪問記
▶次の旅行記:#0536.さようなら、ウイグル。また会える日まで!



 ウイグル滞在最後の朝を迎える。朝早く起きて、20路バスに乗り、 カシュガル(喀什)中心部から東北方向に5kmほどの距離にある「アパク・ホージャ墓」へと向かう。1640年頃から建てられ始めた、カシュガル地域の有力者の墓である。
 アパク・ホージャ墓へは「香妃墓」停留所で降りればよい。香妃墓というのは、アパク・ホージャ墓の別称である。もともとこの墓は、香妃という、ホージャ一族のある娘の墓だと思われていたため、そういう呼ばれ方が定着したそうだ。香妃というのは、1734年に生まれたが、清の乾隆帝がカシュガル一体を制圧した際、夫を戦士で失い、本人は捕虜として北京へ連れてこられてしまう。しかしその美貌によって死を免れるどころか、乾隆帝によって妃として迎えられ、香妃という名前を賜った女性である。しかし現在、彼女の墓はここではなく、河北省遵化市の清東陵に葬られたことが判明しており、彼女の亡骸がここにはないことが分かっている。
 バス停を降りるが、入口を見つけることができず、敷地の周りを歩き回る。

IMG_4496
【2016.9.24】墓地

 アパク・ホージャ墓があり、その周辺には墓地が広がっている。

IMG_4497【2016.9.24】墓地

 なかなか大きな墓地であるが、朝早かったためか、墓参りに訪れる人を見ることはなかった。

IMG_4498【2016.9.24】墓地

 それぞれの墓には、中に光が入るように穴が開いている。それが、光を入れるための穴であるのかははっきりとはしないが、多くの墓が南側に穴を持っていたため、日の光と何か関係があるものではないかと推測したまでである。

IMG_4499【2016.9.24】墓地

 アパク・ホージャ墓への入口を探す。

IMG_4501【2016.9.24】墓地

 ようやく見つかった。
 入口は、広い敷地の1か所にしかないから、道を間違うとうまくたどりつけないかもしれない。その代わり、カシュガルの墓地をみることもできたし、迷うことも悪くないと思った。

アパク・ホージャ墓表

 入場料は30元(約520円)である。

アパク・ホージャ墓裏

 朝だから人は少ないものと思っていたが、さっそく観光客のすがたがあった。

IMG_4503【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 中国人の団体観光客で、ガイドがマイクをつかって敷地内や、墓にあたる建物の中でも大きな声で説明をするものだから辟易する。死者の魂を弔うところで、なぜこのように大きな声を出すことができるのだろう。旅行客はともかく、旅行ガイドが教養のないすがたを見せてどうしようというのか。せめて、マイクを使わなかったらよいと思う。

IMG_4508【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 それにしても美しい。その色彩や形式など、典型的なウイグル建築である。

IMG_4517【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 ウイグル人の建築へのインスピレーションは、メロンやスイカといった自然の恵みから来ていると僕は見ている。

IMG_4519【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 薔薇が咲く。

IMG_4525【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 なお墓の本体がある内部は、写真撮影が禁じれている。

IMG_4530【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 日の光を浴びると、艶やかに光る。
IMG_4532【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 カシュガルはこの日も、雲一つない青空だった。

IMG_4536
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 アパク・ホージャ墓の近くには、「講経堂」がある。

IMG_4539【2016.9.24】講経堂

 敷地内にあるもっとも古い建築で、アパク・ホージャや彼の父親が、コーランの教えをここで教えていたという。

IMG_4540【2016.9.24】アパク・ホージャ墓

 日の光を浴びた屋根が美しい。

IMG_4537【2016.9.24】講経堂

 日陰になっていて、風が通るので気持ちがよい。

IMG_4543【2016.9.24】さらに奥へ

 さらに奥へ進むと、1873年に建てられたモスクがある。

IMG_4545【2016.9.24】モスク

 毎週金曜日には、たくさんの信徒が訪れる。

IMG_4550【2016.9.24】柱

 62の柱から成り立っていて、その柱に色彩や柄には、ひとつも同じものがないという。 
 ところでこの木製の柱、なんだか中国の仏教建築の影響を、少なからず受けているように見える。 こういうものを見ると、仏教圏からイスラム教圏へと入ったからと、文化や風土が劇的に変わることはなく、グラデーションを為して東から西へと、西から東へと断続的に続いているものだと実感するのである。
 そろそろ、ウイグルの旅を終え、飛行機へと乗らなくてはならない。足早に、 アパク・ホージャ墓をあとにした。

◀前の旅行記:#0533.カシュガルでウイグル旅行最後のラグマンを食べる
▶次の旅行記:#0535.カシュガルの空港でウイグルで撮影した写真の検査を求められたバックパッカーの話



 日本人3人組で夕食を食べに行く。

IMG_4420
【2016.9.23】カシュガル市内にて

 「諾瀾(ヌオラン)」というレストランに行く。

IMG_4423【2016.9.23】ヌオラン

 内装がゴージャスなので、価格帯がとんでもなく高いのではないかとひるんでしまった。

IMG_4429【2016.9.23】店内にて

 しかしメニューを開くと、ラグマンが一杯10元(約153円)と、他の食堂とさほど変わらないということが分かる。ウイグルでは内装に力が入っていても、食事代はさほど高くないということが多い。
 ソファーに深く座り込んで、食事を待つ。

IMG_4437【2016.9.23】ナス料理

 まず、ナスの料理が出てくる。
 このあつあつのナスがとろとろと口の中でとろけるようで、絶品だった。みな異口同音に「おいしい、おいしい」と唱えながら、あっという間にお皿を空けてしまう。

IMG_4439【2016.9.23】ラグマン

 おいしかったけれども、ナス料理ほどの衝撃はなかった。
 そして、このラグマンは、この旅、最後のラグマンとなった。この旅行、ラグマンを何杯食べただろう。8杯と、替え玉ひとつ。どれもおいしかったけれども、あえて一つ選ぶなら、ヤルカンドの炒めラグマン(#0493.ヤルカンドの神がかった炒めラグマン!)だった。

IMG_4441【2016.9.23】スープ

 男3人で食べていたが、なかなか量が多かった。

IMG_4443【2016.9.23】チャーハン

 チャーハンまでは食べきった。

IMG_4446【2016.9.23】ピザ

 しかし、ピザまでは食べられなかった。ウイグル人は全般的に甘い味付けが好きなのだろうか。ピザの生地の味付けも、なかなか甘かった。

IMG_4447【2016.9.23】店内にて

 おなかいっぱい食べたけれども、1人あたり日本円で1000円にもならなかった。

IMG_4448【2016.9.23】店内にて

 夜の街をユースホステルへと歩いていく。
 日没後も、街中でたくさんの子どもたちが遊んでいる。

IMG_4457【2016.9.23】子どもたち

 ウイグル人の子どもが、人民解放軍の戦車を模した遊具で遊んでいる。

IMG_4462【2016.9.23】モスク前広場

 モスク前広場では、サッカーをして遊んでいる。
 ユースホステルへと戻り、宿泊客をしばらく会話を楽しんでから、眠りについた。

■諾瀾
 住所:解放北路18号団結大廈2F

◀前の旅行記:#0532.修景事業と再開発が進むカシュガルの街
▶次の旅行記:#0534.アパク・ホージャ墓訪問記



↑このページのトップヘ