地下鉄2号線のソウル大入口(서울대입구)駅からシャトルバスに乗る。長い坂を登り切ると、都会の景色が突如として、郊外の景色へと切り替わる。すぐに、ソウル大学の正門が現れる。日本よりも受験戦争が熾烈だという大韓民国で、ヒエラルキーの頂点に立つ大学である。ソウル大学の入口は同時に、標高632mの冠岳山(관악산)の登山口でもある。ソウル大学は冠岳山(관악산)の山麓にある。

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【2013.4.21】ソウル大学にて

 僕はこの学校の留学生だった。この学校の大学院で修士課程に入った。しかし、研究室の人たちと性格や関心分野など、さまざまな面でまったく反りが合わなかった。そのような状況で孤軍奮闘したものの、4学期での卒業は叶わず、5学期目での卒業も叶いそうもなかった。研究室の学生たちの僕に対する態度や仕打ちは学習意欲を大きく削いだし、僕の研究分野は担当教授が専門としている分野とずれがあり、指導を受けられるものではなかった。異国の地で体調が悪くなるほどのストレスを耐え、悩みに悩んだ。
 ある時、よく相談者に会うことができた。そして、自分の置かれている状態をそれなりに客観視できるようになってから、自分の考えをこう整理した。僕のこれからの人生というものは、修士学位の有無、いや、学歴というものに左右されないのではないか。僕の生きたい世界というものは、学歴という肩書によって人を判断する世界ではなくて、その人自身が今までどういう経験をしてきたのか、また、どういう個性の持ち主なのかということに対し真摯に向き合ってくれる世界なのだ。だから研究室を変えてまで、6学期目あるいは7学期目まで修士学位の取得を目指してソウル大学に通う必要はない。留学生活を畳もうじゃないか。
 修士学位の取得に必要な単位はすでに取得していたし卒業資格試験も合格していたから、僕がその考えを周囲の人に伝えると、初めは皆もったいないとの一点張りだった。必死の思いで韓国語を取得する。外国人がたったひとりしかいない教室で韓国の学生に混じって韓国語で講義を聴く。毎週のように、韓国語の、300ページにも及ぶ文献、論文に目を通し、夜を徹してレポートを書く。2年間、そうやってきたんだ。たしかに、もったいないかもしれない。だから、僕の方から説得しなくてはならなかった。相談を持ち掛けた人間が、説得する側に回る。最終的にはみな、修士学位を取得せず帰国し、新たな道を模索することのほうがよっぽど健康的だと考えてくれるようになった。学習意欲。一度腐ってしまったものは、新鮮にすることはおろか、新鮮を装うことも難しい。新しい道を模索しようという意志。一度芽生えた意志というものは、枯らすこともまた難しい。3年半の間、ソウルで暮らしたことの成果は、必ずしも学位論文だとか修士学位というもので証明する必要はない。人生はまだ長い。この経験はきっと何かの糧になる。信頼に値する友人の賛同は、心強かった。
 とはいえ、教授や研究室の学生たちの前で単位取得を諦め、帰国を宣言するということは、易しいことではなかった。みな、修士学位や博士学位というものの価値を絶対的に信じている人たちだった。そういう人たちの前で、私はもう、学位なんか必要ありませんと言い切る勇気は持てなかった。結局のところ、体調が悪く続けられそうもないという言い訳をして、にげるようにして帰国することにした。その日以来、研究室の学生たちとも教授とも会っていない。2年半、毎日のように顔を合わせ続けていたのに、この宣言をきっかけに、彼らとは一切の連絡が途絶してしまった。人間関係というのははかないと思う。ちなみに、誰とも会っていないというのは厳密には異なり、もうひとり、男子学生のうち、修士学位の取得を諦めた学生がいて、その学生とは近況報告などをしたりはしているものの、彼ももうあっち側の人間ではないし、やはり、連絡が途絶したと言うほうが正しいように思える。

IMG_3503【2013.4.21】ソウル大学にて

 そういう経緯があるから、この学校に対しての感情は複雑なのだ。
 母校だという感覚はない。この学校は僕にとって、「母」のようには接してくれなかった。

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 しかし、桜は綺麗だと思う。

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 ポドゥルコル(버들골)という広い芝生があって、桜が咲く季節や紅葉の季節には、学生たちが集まって、ワイワイやっている。

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 通うことをやめた大学の桜の景色。

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【2015.4.13】ソウル大学にて

 桜は見に行きたいが、後ろめたさはまだある。

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