同じ中華圏であっても、台湾や香港は書かれていることは大体分かる。台湾や香港で利用される漢字 - 繁体字と、日本で利用される漢字 - 新字体は似ている。しかし、中国大陸に行くと事情は異なる。そこは人民の識字率の向上を目的に1950年代から策定された簡体字の世界になる。簡体字は、繁体字や新字体よりも大幅に簡略化されており、知識がないと元の漢字が何であったのか分からないものも多い。
 日本人や台湾人や香港人はいう。「伝統文化を尊重していない。」「美しくない。(日本のいくつかの新字体も美しいとはいえないが・・・。)」「人工的だ。」僕も、2000年もの間ほぼ変わらなかった表記体系に、識字率を向上するとの名目で手を付けてしまったことは残念なことだと思う。そもそも中国大陸よりも、繁体字を利用している台湾や香港の方が識字率が高く推移していることを考えると、簡体字の採用が識字率向上に効果があったのか、いささか疑問が残る。

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【2015.10.29】廈門・東渡碼頭にて

 世界各国の言葉で「愛してる。」を表現したかったようだ。日本語は、「爱している。」となっている。「~している。」という表現がかたくるしくて、あまり口語的ではないことはさておき、「爱」という漢字が気に入らない。心無くして、なぜ愛なんだろう!いや、その代わり、簡体字には友情の「友」があるではないかという反論もあるというが、僕は、「心」が入っている方が好きだ。
 よくやり玉にあげられるのが以下のような簡体字である。

■愛無心
愛
心なくして、どう愛することができよう。

■親不見
親
親は子どもの面倒をみなくなった。

■產不生
産
「生」なくして、どう生産活動ができるのか。

■麵無麥
麺
小「麦」粉が無いのに、どうやって麺を作るのか。

■有雲無雨
雲
雲は、雨を降らせなくなりました。

■運無車
運
車無くして、どう物を運べるのか。

■飛單翼
飛
たった一枚の翼で、どう飛ぼうというのか。

■導無道
導
進むべき道すらないのに、どう、人を導くことができようか。

■聖不能聽也不能說
聖
耳も口も失い、聖人は話すことも、聞くこともできない。

■開無門
開
開こうにも開く門がない!

 いくつかは、単なる簡体字に対する皮肉に留まらず、昨今の世の中を批判しているようにもみえる。そしてやはり、簡体字についてはあまり共感できない。漢字として、欠いてはいけない何かを欠いているように思われるからだ。