ウイグル滞在最後の朝を迎える。朝早く起きて、20路バスに乗り、 カシュガル(喀什)中心部から東北方向に5kmほどの距離にある「アパク・ホージャ墓」へと向かう。1640年頃から建てられ始めた、カシュガル地域の有力者の墓である。
アパク・ホージャ墓へは「香妃墓」停留所で降りればよい。香妃墓というのは、アパク・ホージャ墓の別称である。もともとこの墓は、香妃という、ホージャ一族のある娘の墓だと思われていたため、そういう呼ばれ方が定着したそうだ。香妃というのは、1734年に生まれたが、清の乾隆帝がカシュガル一体を制圧した際、夫を戦士で失い、本人は捕虜として北京へ連れてこられてしまう。しかしその美貌によって死を免れるどころか、乾隆帝によって妃として迎えられ、香妃という名前を賜った女性である。しかし現在、彼女の墓はここではなく、河北省遵化市の清東陵に葬られたことが判明しており、彼女の亡骸がここにはないことが分かっている。
バス停を降りるが、入口を見つけることができず、敷地の周りを歩き回る。
【2016.9.24】墓地
アパク・ホージャ墓があり、その周辺には墓地が広がっている。
【2016.9.24】墓地
なかなか大きな墓地であるが、朝早かったためか、墓参りに訪れる人を見ることはなかった。
【2016.9.24】墓地
それぞれの墓には、中に光が入るように穴が開いている。それが、光を入れるための穴であるのかははっきりとはしないが、多くの墓が南側に穴を持っていたため、日の光と何か関係があるものではないかと推測したまでである。
【2016.9.24】墓地
アパク・ホージャ墓への入口を探す。
【2016.9.24】墓地
ようやく見つかった。
入口は、広い敷地の1か所にしかないから、道を間違うとうまくたどりつけないかもしれない。その代わり、カシュガルの墓地をみることもできたし、迷うことも悪くないと思った。
入場料は30元(約520円)である。
朝だから人は少ないものと思っていたが、さっそく観光客のすがたがあった。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
中国人の団体観光客で、ガイドがマイクをつかって敷地内や、墓にあたる建物の中でも大きな声で説明をするものだから辟易する。死者の魂を弔うところで、なぜこのように大きな声を出すことができるのだろう。旅行客はともかく、旅行ガイドが教養のないすがたを見せてどうしようというのか。せめて、マイクを使わなかったらよいと思う。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
それにしても美しい。その色彩や形式など、典型的なウイグル建築である。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
ウイグル人の建築へのインスピレーションは、メロンやスイカといった自然の恵みから来ていると僕は見ている。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
薔薇が咲く。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
なお墓の本体がある内部は、写真撮影が禁じれている。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
日の光を浴びると、艶やかに光る。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
カシュガルはこの日も、雲一つない青空だった。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
アパク・ホージャ墓の近くには、「講経堂」がある。
【2016.9.24】講経堂
敷地内にあるもっとも古い建築で、アパク・ホージャや彼の父親が、コーランの教えをここで教えていたという。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
日の光を浴びた屋根が美しい。
【2016.9.24】講経堂
日陰になっていて、風が通るので気持ちがよい。
【2016.9.24】さらに奥へ
さらに奥へ進むと、1873年に建てられたモスクがある。
【2016.9.24】モスク
毎週金曜日には、たくさんの信徒が訪れる。
【2016.9.24】柱
62の柱から成り立っていて、その柱に色彩や柄には、ひとつも同じものがないという。
ところでこの木製の柱、なんだか中国の仏教建築の影響を、少なからず受けているように見える。 こういうものを見ると、仏教圏からイスラム教圏へと入ったからと、文化や風土が劇的に変わることはなく、グラデーションを為して東から西へと、西から東へと断続的に続いているものだと実感するのである。
そろそろ、ウイグルの旅を終え、飛行機へと乗らなくてはならない。足早に、 アパク・ホージャ墓をあとにした。
◀前の旅行記:#0533.カシュガルでウイグル旅行最後のラグマンを食べる
▶次の旅行記:#0535.カシュガルの空港でウイグルで撮影した写真の検査を求められたバックパッカーの話
アパク・ホージャ墓へは「香妃墓」停留所で降りればよい。香妃墓というのは、アパク・ホージャ墓の別称である。もともとこの墓は、香妃という、ホージャ一族のある娘の墓だと思われていたため、そういう呼ばれ方が定着したそうだ。香妃というのは、1734年に生まれたが、清の乾隆帝がカシュガル一体を制圧した際、夫を戦士で失い、本人は捕虜として北京へ連れてこられてしまう。しかしその美貌によって死を免れるどころか、乾隆帝によって妃として迎えられ、香妃という名前を賜った女性である。しかし現在、彼女の墓はここではなく、河北省遵化市の清東陵に葬られたことが判明しており、彼女の亡骸がここにはないことが分かっている。
バス停を降りるが、入口を見つけることができず、敷地の周りを歩き回る。
【2016.9.24】墓地
アパク・ホージャ墓があり、その周辺には墓地が広がっている。
【2016.9.24】墓地
なかなか大きな墓地であるが、朝早かったためか、墓参りに訪れる人を見ることはなかった。
【2016.9.24】墓地
それぞれの墓には、中に光が入るように穴が開いている。それが、光を入れるための穴であるのかははっきりとはしないが、多くの墓が南側に穴を持っていたため、日の光と何か関係があるものではないかと推測したまでである。
【2016.9.24】墓地
アパク・ホージャ墓への入口を探す。
【2016.9.24】墓地
ようやく見つかった。
入口は、広い敷地の1か所にしかないから、道を間違うとうまくたどりつけないかもしれない。その代わり、カシュガルの墓地をみることもできたし、迷うことも悪くないと思った。
入場料は30元(約520円)である。
朝だから人は少ないものと思っていたが、さっそく観光客のすがたがあった。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
中国人の団体観光客で、ガイドがマイクをつかって敷地内や、墓にあたる建物の中でも大きな声で説明をするものだから辟易する。死者の魂を弔うところで、なぜこのように大きな声を出すことができるのだろう。旅行客はともかく、旅行ガイドが教養のないすがたを見せてどうしようというのか。せめて、マイクを使わなかったらよいと思う。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
それにしても美しい。その色彩や形式など、典型的なウイグル建築である。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
ウイグル人の建築へのインスピレーションは、メロンやスイカといった自然の恵みから来ていると僕は見ている。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
薔薇が咲く。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
なお墓の本体がある内部は、写真撮影が禁じれている。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
日の光を浴びると、艶やかに光る。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
カシュガルはこの日も、雲一つない青空だった。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
アパク・ホージャ墓の近くには、「講経堂」がある。
【2016.9.24】講経堂
敷地内にあるもっとも古い建築で、アパク・ホージャや彼の父親が、コーランの教えをここで教えていたという。
【2016.9.24】アパク・ホージャ墓
日の光を浴びた屋根が美しい。
【2016.9.24】講経堂
日陰になっていて、風が通るので気持ちがよい。
【2016.9.24】さらに奥へ
さらに奥へ進むと、1873年に建てられたモスクがある。
【2016.9.24】モスク
毎週金曜日には、たくさんの信徒が訪れる。
【2016.9.24】柱
62の柱から成り立っていて、その柱に色彩や柄には、ひとつも同じものがないという。
ところでこの木製の柱、なんだか中国の仏教建築の影響を、少なからず受けているように見える。 こういうものを見ると、仏教圏からイスラム教圏へと入ったからと、文化や風土が劇的に変わることはなく、グラデーションを為して東から西へと、西から東へと断続的に続いているものだと実感するのである。
そろそろ、ウイグルの旅を終え、飛行機へと乗らなくてはならない。足早に、 アパク・ホージャ墓をあとにした。
◀前の旅行記:#0533.カシュガルでウイグル旅行最後のラグマンを食べる
▶次の旅行記:#0535.カシュガルの空港でウイグルで撮影した写真の検査を求められたバックパッカーの話