この日は、翻訳すべき書類があったため、朝食を食べ終わってからは、パソコンとにらめっこをしていた。

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【2017.2.11】那覇市内にて

 せっかく那覇に、沖縄にやってきたのだから一日中、観光でもしていたかったけれども、もともと通訳、翻訳の仕事のために来ていたのだから、こればかりは仕方がなかった。

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 しかし、翻訳すべき書類が片付き、一連の仕事は無事、終了した。
 これで、ようやく「観光」に打ち込むことができるようになる。沖縄へと東京への交通費は現金で2万円が支給された。そのため、いつ、どのように帰ってもよかったから、しばらく沖縄で過ごすことにした。

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 しかし、通訳として滞在していたホテルからは出なくてはならなかったから、那覇市内のゲストハウスに移動することとなった。
 那覇市中心部には、2000円前後のゲストハウスが多数、存在していて、観光地でありながら宿泊費があまり負担にはならないところである。

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 そのゲストハウスには、旅が好きな人たちが集まっていた。日本中を旅して回っているスイス人とドイツ人の二人組ともいたし、台湾人の学生もいたし、日本各地から沖縄に旅行に来ている日本人の若い人たちもいた。
 スイス人とドイツ人の二人組は沖縄に来る前は、沖縄は日本列島を為す島のうちのひとつ程度にしか思っていなかったそうだが、やってくると本州方面とは全く雰囲気が違うから、驚いたと言った。 もともと琉球といって、日本とは異なる別の国家が存在した地域であるということを説明すると、なんだか、納得をしたようだった。
 また、ゲストハウスにはカフェが併設されていて、那覇の人々と会って、話すこともできる。そのうち、出身が嘉手納だという人がいた。嘉手納町は町の面積の82.5%を米軍基地が占める町である。その話に触れると、彼もやはり先祖代々の土地を「銃剣とブルドーザー」で強制収容され米軍基地にされてしまった、そういう一族なのだという。
 「沖縄は島津家の支配を受け、日本の支配を受け、太平洋戦争では日本列島から尻尾を切るかのように切り捨てられ、アメリカの支配を受けることになった。それから結局、日本に復帰はしたものの、米軍基地を押し付けられたままで、日本とアメリカの意思決定に逆らうことができないでいる、いわば、植民地同然だ」と、彼は言う。「それでも金銭的な補償を受けているから、マシだって?そこが『農地』であることを前提とした金額しか支払われれないのに?もしかしたら、市街化していたかもしれない。横須賀の米軍基地の方はそこを市街地と仮定して補償金を算定しているから、もっとたくさんの補償金が支払われているっていうじゃないか。沖縄の人はいつまでも二等国民扱いをされているわけさ」と話を続ける。
 「1945年から日本復帰の1972年までは、本土に行くのにパスポートが必要だった。復帰前に東京に行ったことがあるけれども、あの時の入国審査官は怖かった。同じ日本国民として教育を受けていたのに、戦争に負けたら、もうあなたたちは日本人ではありませんよと、外国人扱いして、疑心の目を向けられる。そういう気持ちが分かりますか」
 「結局、1972年、沖縄は日本に復帰して、我々はまた日本人に戻ったわけだけれども、復帰直後に東京に行ったら、東京の人に『沖縄ではまだみな、靴を履かないんで、裸足で外を歩き回るんですよね』だなんて真摯な顔で言われちゃって。それこそ、土人扱いさ。本土の人は、沖縄のことをまるでしらない。でも、そういう状態だから、本土で、自分が沖縄の人だと思われるのも悔しくてね。本土人に見えるよう、努めたさ。そういう時代があった。今はもう、沖縄については以前よりよく知られるようになったし、そういう馬鹿げた質問をする人もいなくなったし、若い人はむしろ、沖縄に憧れすら持ってくれているし、本土の人の認識についてはずいぶんとよくなったとは思う」
 「しかし、それでも、先祖代々の土地はまだ米軍基地として強制収容されたままで、何ら変わっていない。我々の戦後はいつ、終わるのだろう。しかし、この頃は、沖縄の人ですら、米軍基地問題に関心を持たなくなってきている。特に那覇の人なんて、全然関心がない。那覇には米軍基地がほとんどないし、軍用機による騒音の害もない。もしかしたら彼らの関心は、本土の人とあまり、変わらないかもしれない。そういう現状で、沖縄自身もまた、沖縄を変えていく力を失ってきている、そう思う」 
 彼はそう、話した。僕もまた、昨今の日本政府の沖縄に対する対応はあまり誠実なものだとは言えないと思っていたから、とても気の毒だとは思った。しかし、同時に、気の毒に思うという程度のことしか言えなかったことを、すまなく思うしかなかった。そうすると彼は「本土の人が、話をきいて、知ってくれるだけでも十分だ」と言ってくれたのだった。