ホテルよしざとの人が「昼食は、ホテルの目の前にある『富士食堂』で食べていくお客さんが多いですから是非どうぞ」とおっしゃるので、そこで、食べていくことにした。

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【2017.2.12】大東そば

 看板には「大東そば」とだけ書いてあるが、ここが「富士食堂」であることは間違いないようだ。

IMG_6642【2017.2.12】富士食堂にて

 地元のお客さんも、多いように思われた。
 大東寿司と大東そばのセット(1000円)を注文した。一度に二つの南大東島の名物を、味わうことができる。

IMG_6645【2017.2.12】大東寿司

 まず、大東寿司が出てくる。
 大東寿司は鰆(さわら)を醤油主体のタレでヅケにして、握った寿司である。この大東寿司はもともと、伊豆諸島の八丈島を起源とする料理であって、沖縄のものではない。
 なぜ、八丈島を起源とする料理が南大東島の名物として扱われているのだろう。それを知るには、南大東島の歴史に触れる必要がある。
 そもそも南大東島は、19世紀までは人が住むことのない無人島であった。それまで琉球王国がこの島を認知し、大東島(うふあがりじま)と呼ぶことはあったとしても、そこに人が住むことは無かった。
 琉球王国が廃止されてから6年後の1885年に、南大東島は明治政府によって日本の領土に編入される。南大東島が沖縄県として日本の領土に編入されてからは、国土を保全することを目的として、島へと開拓民を送ることがが検討された。明治政府は日本各地から開拓民を募り南大東島へと送り込んだが、その不毛な土地に人々が定着することはなかった。それから明治政府は、離島の開拓は、島に住んでいる人こそが成功のノウハウを持っているのではないかと考え、八丈島から開拓民を募り派遣したところ、ようやく開拓に成功した。その時、南大東島に渡ったのが玉置半右衛門を中心とした開拓民であり、それが1900年のできごとである。
 彼らは、サトウキビ畑として島を開墾し、製糖業によって財をなすことに成功したのだった。その「玉置半右衛門」の肖像画が、富士食堂には飾られていた。
 つまり南大東島は沖縄県にありながら、他の沖縄の地域とは全く異なる歴史を歩んできているのである。沖縄県にあるものの、琉球王国によって支配されたことはないし、八丈島の人々、つまり沖縄でいう「ヤマトンチュ」によって開墾された島なのである。
 しかし、今となってはたくさんの、沖縄系の人々がこの島で生活をしている。それはかつて、島における製糖業を成功させるために安価な労働力が必要だったため、八丈島からの開拓民がその労働力を、南大東島の周辺地域、つまり沖縄本島方面から連れてきたからである。そのことは、支配者(八丈系住民)と奴隷(沖縄系住民)という構造をこの島にもたらし、双方のわだかまりは長い間、解消しなかったそうだ。

IMG_6646【2017.2.12】大東そば

 それから大東そばを食べる。
 もともと、ラフテー(三枚肉)がのるのだが、(那覇からの)船の入港が遅れていて、在庫を切らしているから、他の肉に変えたと言った。海上時化のため、那覇からの出港が3日続いて取りやめになっていたところだった。

IMG_6647【2017.2.12】昼食

 風味のよいかつおだしは、沖縄そばと似ているが、麺が明らかに異なる。うどんのように、コシがある。それが、大東そばの特徴なのだそうだが、残念ながら大東そばはもう南大東島では生産されていないという。全てが沖縄本島の工場で生産されていて、それを南大東島へと持ってきているだけなのだと、食堂の人は説明した。

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 【2017.2.12】富士食堂にて

 昼食を食べていると、通り雨が降った。食堂の人は「かたぶいかしら。今日は、天気がずいぶんと変だわ」と言った。「かたぶい」とは沖縄で、通り雨のことを言う言葉だそうだ。
 それにしても、南大東島の歴史は特異である。支配者としての八丈系住民と、奴隷としての沖縄系住民というあたかも植民地としての歴史を、日本国内に有する地域があるということは、とても衝撃的だと思う。

■富士食堂
 住所 : 沖縄県島尻郡南大東村在所134
 営業時間 : 午前6時~午前8時半, 午前11時45分~午後2時, 午後6時~午後8時