夕方の時間帯が近づくにつれ、雲が多くなっていった。

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【2017.2.13】南大東島にて

 南大東島で過ごす、二日目も暮れようとしている。

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 雨が、ぱらつき始める。

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 一日のうちに、晴れている時間、曇りの時間、雨の時間、全てがある。この天気の移ろいはなんだか、いかにも南の気候といった感じだ。

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 さとうきびの穂が風にさらさらと揺れて、光り輝く。

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 2日間、島中を自転車で回った。

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 面積が30平方キロメートルというのは、2日間で回るにはちょうどよい大きさだと思う。

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 地蔵がある。

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 古くから琉球王国の土地であった、沖縄本島では見ることができない。南大東島が、八丈島から渡ってきた人々によって開拓された島であることを、地蔵の存在は暗に伝えている。

IMG_7089【2017.2.13】自転車

 近くに、島の開拓民団の上陸を記念して建てられた記念碑がある。現在ある記念碑は、昭和5年(1930年)に建てられたコンクリート製のものだという。
 1900年1月23日に23人の開拓団が八丈島から渡ってきた。それから、幾多の困難があり、八丈島からは帰郷を求められたが、それを断りながら、なんとか製糖業の島へと作りかえた。

IMG_7092【2017.2.13】記念碑

 それは、輝かしい歴史ではあるかもしれない。
 しかし一方で八丈島から渡ってきた当初の開拓民は、製糖業の労働力として沖縄本島から沖縄の人々を労働力として連れ込み、奴隷として搾取した。当時、南大東島は製糖会社の所有地であり、警察や学校といった日本の公権による支配は行われず、そういう「植民地」の歴史が解消されることはなかった。太平洋戦争末期の沖縄戦のころ、八丈系の住民の多くが八丈島へと帰還したり、沖縄県が米軍の管理下に入ることで、この状態はやっと解消され、1946年に初めて南大東村という自治体が作られた。
 しかし、八丈系の住民と、沖縄系の感情的なわだかまりは長く続き、学校ではお互いに交わろうとしなかったり、お互いの結婚もよくないものとされていた時期が長く続いたという。今でこそそれは、解消されたというが、「姓」を見れば八丈系なのか沖縄系なのかが分かる、そういう構造は残っている。

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 もう一度、海を見に来る。

IMG_7099【2017.2.13】太平洋

 「塩屋プール」という、島の西部に作られた岩のプールである。
(海軍棒プールは島の東部にある, #0853.南大東島のワイルドな海軍棒プール)

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 雨が、大粒になった。
 雨にも濡れて、岩場に打ち付けた波が体にふきつけ、体が潮くさくも感じられた。

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 宿へと戻ることにした。

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 宿につくころには、雨で、体がびっしょりになっていた。