目が覚めると、午前7時半だった。外は、深い霧に覆われていた。
【2016.12.12】宿からの景色
その霧も少しずつ晴れていって、20分ほど立つと、駐車場の向こうまではっきりと見渡せるようになった。
【2016.12.12】宿からの景色
朝になると、夜には見えなかったものが見える。そこにははっきりと「有瀬小学校」と書いてあったし、駐車場に面したところには神社である「三部神社」もある。
そもそも今、駐車場であるところは、駐車場ではなく小学校の校庭だった。廃校後、アスファルトで舗装し、ヘリポートを兼ねた駐車場に変えたのだという。山間の過疎の村で災害があっても、ヘリコプターが離着陸できる場所があれば、孤立の心配も少ない。
【2016.12.12】宿からの景色
雲海が広がる。
朝には美しい雲海が望めることが有瀬の自慢だというが、おじさん曰く「空が晴れ、雲が谷間に水平に立ちこめるということはめずらしい」という。この日はたしかに、雲海が見られたけれども、絶好の条件ではなかった。
【2016.12.12】宿からの景色
朝が寒かったためか、茶畑には霜が降りて、ほんのりと白くなっている。
【2016.12.12】楽校の宿にて
2年生(和室)の隣は、6年生(洋室)である。
【2016.12.12】図書室
和室の隣には、図書室もある。まだ、片付けが進んでいないとう。おじさんは、「学校の歴史の資料も残してある。わしらが小学生だった時の写真もどこかに残っているかもしれない」と、説明した。もし、小学校を廃校にして、建物を取り壊していたら、こういった資料、つまり有瀬という集落が存在し、そこを生まれ育った人たちがいたという記憶すら、この地球上から消えていたかもしれない。
全国の、有瀬出身者の心の拠り所であり、民宿としてオープンしてから、同窓会を開いたりもしたそうである。
【2016.12.12】校歌
有瀬小学校は、明治時代からの歴史がある。もともと、明治時代に集落の人が自らの土地と邸宅を、集落の人の教育のためにと提供したのが起こりで、最盛期は100人以上の生徒がいたという。しかし、1996年に休校(生徒数が0名だが、転校生が来たら再開する準備がある状態)になり、ついには2012年に廃校になる。
【2016.12.12】雲海
廊下には、2012年の廃校後、この廃校舎を民宿として再生するプロジェクトについて、取材された新聞記事が並ぶ。
集落が急斜面にあって、大規模農業も望むことができないこの集落は、養蚕業や製茶業、蕎麦が主な産業だったが、それでも村の人全員が食べていくには厳しかったようで、昔から出稼ぎが一般的だったし、家族ごと周囲の町に移住することが多かった。500人以上いた集落はもう、100人ほどしか住んでいない。このままでは、集落が消えてしまえば、過去から受け継いできた文化も消えてしまう。有瀬小学校という、集落で一番大きな建物が、「廃校」というのでは、ますます元気も出ない。
【2016.12.12】プール
つまりこのプロジェクトは、限界集落において自分たちの生まれ育った土地とその文化をいかに次世代につないでいくかということが、大きなポイントになっている。
【2016.12.12】宿にて
そう思うとこのプロジェクトは、時代の最先端を行く「挑戦」なのだと思う。
自分たちの故郷とその文化を次世代の人々の記憶へと伝えていくために、廃校を民宿とするということを、他の誰が思いつくのだろうか。思いついたとしても、果たして実行できるものだろうか。
【2016.12.12】洋室
「エキスパート」がいるだけあって、教室は完全に、ホテルの一室のように改装されている。
【2016.12.12】小学校の教室だった名残
しかしよく目を凝らすと、天井などに、それが小学校の教室であったという名残がある。
【2016.12.12】廊下
和室もそうだ。
【2016.12.12】和室
廊下などに展示されている児童の作品は、それが1996年にはすでに最後の卒業生を出してしまった学校のものであるから、20年以上前のものであるはずだ。
【2016.12.12】廊下
それを作った人は今、どこで生きているのだろう。
【2016.12.12】階段
そういう児童たちの作品に並び、今、新しい作品も並んでいる。
【2016.12.12】階段の踊り場
この民宿の運営に関わる人々や、彼らが撮った写真などが展示されていた。
思えば、人口100人ほどの集落に、15人ほどのメンバーでなんとか経営できる宿を作ったわけだから、それは思い切った決断と、覚悟だと思う。もう、やめるわけにもいかないのだ。
【2016.12.12】校舎
それにしても外壁は、完全に小学校そのものである。
【2016.12.12】宿からの景色
その霧も少しずつ晴れていって、20分ほど立つと、駐車場の向こうまではっきりと見渡せるようになった。
【2016.12.12】宿からの景色
朝になると、夜には見えなかったものが見える。そこにははっきりと「有瀬小学校」と書いてあったし、駐車場に面したところには神社である「三部神社」もある。
そもそも今、駐車場であるところは、駐車場ではなく小学校の校庭だった。廃校後、アスファルトで舗装し、ヘリポートを兼ねた駐車場に変えたのだという。山間の過疎の村で災害があっても、ヘリコプターが離着陸できる場所があれば、孤立の心配も少ない。
【2016.12.12】宿からの景色
雲海が広がる。
朝には美しい雲海が望めることが有瀬の自慢だというが、おじさん曰く「空が晴れ、雲が谷間に水平に立ちこめるということはめずらしい」という。この日はたしかに、雲海が見られたけれども、絶好の条件ではなかった。
【2016.12.12】宿からの景色
朝が寒かったためか、茶畑には霜が降りて、ほんのりと白くなっている。
【2016.12.12】楽校の宿にて
2年生(和室)の隣は、6年生(洋室)である。
【2016.12.12】図書室
和室の隣には、図書室もある。まだ、片付けが進んでいないとう。おじさんは、「学校の歴史の資料も残してある。わしらが小学生だった時の写真もどこかに残っているかもしれない」と、説明した。もし、小学校を廃校にして、建物を取り壊していたら、こういった資料、つまり有瀬という集落が存在し、そこを生まれ育った人たちがいたという記憶すら、この地球上から消えていたかもしれない。
全国の、有瀬出身者の心の拠り所であり、民宿としてオープンしてから、同窓会を開いたりもしたそうである。
【2016.12.12】校歌
有瀬小学校は、明治時代からの歴史がある。もともと、明治時代に集落の人が自らの土地と邸宅を、集落の人の教育のためにと提供したのが起こりで、最盛期は100人以上の生徒がいたという。しかし、1996年に休校(生徒数が0名だが、転校生が来たら再開する準備がある状態)になり、ついには2012年に廃校になる。
【2016.12.12】雲海
廊下には、2012年の廃校後、この廃校舎を民宿として再生するプロジェクトについて、取材された新聞記事が並ぶ。
集落が急斜面にあって、大規模農業も望むことができないこの集落は、養蚕業や製茶業、蕎麦が主な産業だったが、それでも村の人全員が食べていくには厳しかったようで、昔から出稼ぎが一般的だったし、家族ごと周囲の町に移住することが多かった。500人以上いた集落はもう、100人ほどしか住んでいない。このままでは、集落が消えてしまえば、過去から受け継いできた文化も消えてしまう。有瀬小学校という、集落で一番大きな建物が、「廃校」というのでは、ますます元気も出ない。
そこで、集落のメンバーで、廃校になった小学校を、民宿として再生することを思いつく。国・自治体から1700万円の予算が下りるが、改装するための資材を揃えるだけで精いっぱいだったそうだ。
「メンバーに2人くらい、旅館とかで働いていた人がいてね。いわゆるエキスパート。アドバイスを得ながら進めていったんだけど、お金が足りなくてね。この壁紙とか自分たちの手で直接、やった。15人ほどのメンバーのうち、男は5人しかいなくて、しかもそのうち2人は病気がちだったから、大変だった」とおじさんは、言った。
それでも、交流人口が増えれば、人々の記憶に有瀬集落を残すことができるし、集落の人々の生きがいになる。紆余曲折を経て、2016年4月にオープンしたが、8月には150人ほどが宿泊するなど、非常に忙しかったそうだ。
「メンバーに2人くらい、旅館とかで働いていた人がいてね。いわゆるエキスパート。アドバイスを得ながら進めていったんだけど、お金が足りなくてね。この壁紙とか自分たちの手で直接、やった。15人ほどのメンバーのうち、男は5人しかいなくて、しかもそのうち2人は病気がちだったから、大変だった」とおじさんは、言った。
それでも、交流人口が増えれば、人々の記憶に有瀬集落を残すことができるし、集落の人々の生きがいになる。紆余曲折を経て、2016年4月にオープンしたが、8月には150人ほどが宿泊するなど、非常に忙しかったそうだ。
【2016.12.12】プール
つまりこのプロジェクトは、限界集落において自分たちの生まれ育った土地とその文化をいかに次世代につないでいくかということが、大きなポイントになっている。
【2016.12.12】宿にて
そう思うとこのプロジェクトは、時代の最先端を行く「挑戦」なのだと思う。
自分たちの故郷とその文化を次世代の人々の記憶へと伝えていくために、廃校を民宿とするということを、他の誰が思いつくのだろうか。思いついたとしても、果たして実行できるものだろうか。
【2016.12.12】洋室
「エキスパート」がいるだけあって、教室は完全に、ホテルの一室のように改装されている。
【2016.12.12】小学校の教室だった名残
しかしよく目を凝らすと、天井などに、それが小学校の教室であったという名残がある。
【2016.12.12】廊下
和室もそうだ。
【2016.12.12】和室
廊下などに展示されている児童の作品は、それが1996年にはすでに最後の卒業生を出してしまった学校のものであるから、20年以上前のものであるはずだ。
【2016.12.12】廊下
それを作った人は今、どこで生きているのだろう。
【2016.12.12】階段
そういう児童たちの作品に並び、今、新しい作品も並んでいる。
【2016.12.12】階段の踊り場
この民宿の運営に関わる人々や、彼らが撮った写真などが展示されていた。
思えば、人口100人ほどの集落に、15人ほどのメンバーでなんとか経営できる宿を作ったわけだから、それは思い切った決断と、覚悟だと思う。もう、やめるわけにもいかないのだ。
【2016.12.12】校舎
それにしても外壁は、完全に小学校そのものである。