地球の覗き方

地球のことをのぞいてみよう

カテゴリ: ウズベキスタン

 タシュケント最大の繁華街へと向かった。

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【2014.7.21】ブロードウェイ

 「ブロードウェイ」と呼ばれている大通りだったが、真夏の昼、人影もまばらだ。もともと、露店や屋台などがひしめきあっていたというが、スリやひったくりといった治安の問題があって、最近、政府から撤去するように指導があったというから、惜しい。

IMG_6517【2014.7.21】絵画

 絵画売りがいた。

IMG_6519【2014.7.21】絵画

 ウズベキスタンの自然や、文化遺産について描いたものが多かった。
 サマルカンド、ブハラ、ヒヴァなどこの1週間にめぐってからやってきたタシュケントで、それらの都市の文化遺産を題材とした絵画を目にして、懐かしくなり、また、戻りたくなった。サマルカンドのあの広場も、ブハラのあのモスクもこれからは大切な思い出だ。

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 友人に、 ウズベキスタンでは休日、何をして過ごすのかときいた。タシュケントはあまり遊びに行くところも少ないが、若い人たちは映画観覧が好きだという。ロシア語の映画、ウズベク語の映画がそれぞれ上映されているとか。
 それから、独立広場へと向かう。 

IMG_6522【2014.7.21】独立広場

 白い石が敷き詰められていて、まぶしくて仕方がない。目を開けていられない。タシュケントは緑地やこういった広場のたぐいが多いと思う。ソ連式の都市計画を感じる。
 ウズベキスタンは1991年9月1日にソ連から独立をした。僕よりも若い国だ。中央アジアの西部地域で、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンとともに独立をした。東部地域は、新疆ウィグル自治区として中華人民共和国内にある。 中央アジアの人々が「国家」というものを手にしたのはつい最近のことだ。したがって、この地域は国際的な存在感がまだ希薄な地域だとは思う。

IMG_6526【2014.7.21】独立記念碑

 かつてはウズベキスタンの人間がオリンピックの代表になっても、ソ連代表でしかなかったわけであるから、ウズベキスタンという地域が国際的に認知されることは、あまりなかったのだ。
 それから、戦没者追悼公園へと向かった。

IMG_6533【2014.7.21】戦没者追悼公園

 戦没者というのは、第二次世界大戦当時、ソ連軍の兵士として参戦し、戦没した人々のことだ。

IMG_6534【2014.7.21】戦没者追悼公園

 追悼施設は、ウズベキスタンの伝統的な意匠が組み込められている。

IMG_6535【2014.7.21】戦没者追悼公園

 本のようにめくることができる。ウズベキスタンの人間の名前、ロシアの人間の名前を分けることなく、いっしょくたに並べたものだと、ウズベキスタンの友人は説明する。それから彼女は、どれがウズベク式でどれがロシア式の名前かということを説明してくれた。

IMG_6536【2014.7.21】戦没者追悼公園

 10台後半、20代前半で戦死した人々の名前が並ぶのをみると、心が痛む。僕よりも若くして、戦死するとは。人生初めての任務が、すなわち死ぬことだったという人もいたと思う。
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 【2014.7.21】戦没者追悼公園

 あれは、平和を祈るための聖火だという。この地球上に平和を希求しない民族はいないというのに、なぜ、戦争というものは起こるのだろうか。

2014年 夏ウズベキスタン7泊8日
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 僕と同行の友人と、ウズベキスタンの友人の3人で地下鉄に乗って移動することになった。地下鉄の駅に入ろうとすると、とても冷ややかな風が内側から吹き上げてくるのを感じる。駅構内は冷房がよく効いている。ウズベキスタンの友人は「涼みに行くために地下鉄をわざわざ乗る人も多いのよ」と言った。料金は一回の利用で、たったの30円だ。目的地がどこであれ、30円だ。
 地下鉄の駅は深く、薄暗かった。旧ソ連圏では地下鉄の駅が、核シェルターとして機能するように設計されていると言われているが、その知識の通りだった。何の案内放送もなしに突然、地下鉄車両が進入し、扉が開き、何の合図も無しに扉は閉められ、動き出す。非常に、無機的だ。
 地下鉄網は案外、充実していて、3路線がある。一号線は1977年にはすでに営業を始めていて、例えば、韓国のソウルの地下鉄の1号線の開通時期である1974年とさほど変わりがない。
 ところで、地下鉄の駅は撮影が厳格に禁止されている。そして、警察官、警備員がやたらに多い。なぜだろう。駅の出入口にも、改札口にも、プラットフォームにもどこにもかしこにもいる。ただ涼しいところで働きたいからだろうか、それとも、核シェルターという軍事施設としての機能があるからなのだろうか。なぜ地下鉄の駅をこうも監視しなくてはならないのだろう。疑われるのもいやなので、カメラはしっかりと鞄の中にしまった。
 列車に乗るとウズベキスタンの友人が「走行中の電車の中なら、警察官や警備員に見つかることはないわ。写真を撮ってもいいわよ」といい出す。そして3人、みなカメラを取り出し、写真を撮っては、駅に到着するたびに鞄にしまう。記念撮影として、走行中の車内でピースなどをして、お互いを撮りあったりする。

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【2014.7.20】地下鉄車内
 
 しかし…。
 我々が地下鉄の車両内で撮影行為をしていることを乗客が見ており、我々がある駅で乗り換える際、その乗客が我々の行為を警察官に通報したのだった。(同行の友人はこれを「密告」されたと表現していたが、密告というとやや大げさに思う。不審者、不審物がありましたら、係員にお知らせくださいのレベルだったろう。)それから、警察官が我々のところにやってきて、「上にのぼりましょう」という。瞬間、どきりとしたが、ウズベキスタンの友人が「こんなこと、なんでもないわ」というので、何とかなるだろうと思った。
 エスカレーターを上り、駅務室の前まで連れていかれた。駅務室に入れられることはなかった。そこで、パスポートを見せ、ビザを確認され、僕に対し、撮影した写真を消すように求められた。同行の友人と、ウズベキスタンの友人は、エスカレーターを上る際、こっそりと鞄にカメラを隠した。そのため、僕だけが写真を消すことになった。5枚ほどは消したと思う。何枚かは削除画面で、「キャンセル」を押し、残しておいた。「キャンセル」にしろ、「削除」にしろ、どちらを押しても、ウズベキスタンの彼らには分からまい。

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【2014.7.20】地下鉄車内

 警察官は親切だった。
 ウズベキスタンの友人は、警察官が「規則上、していることですから、心配することはありません。我々はあなたがたを歓迎しています。残り少ないウズベキスタンでの滞在でしょうが、タシュケントの観光をお楽しみください」と言っていると通訳をしてくれた。(そして、帰国後、データ復活ソフトを利用し、SDカードからその場で消した5枚の写真のうちのさらに何枚かを復元した。)
 地上に出る。やたら、まぶしい。

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【2014.7.20】ホテルウズベキスタン

 ホテルウズベキスタンだ。ウズベキスタンでは権威のあるホテルだそうだが、何しろ宿泊費が安いとは言えない。タシュケント市内は、宿泊費が高めだ。
 それから、アミール・ティムール広場に立ち寄る。

IMG_6512【2014.7.20】アミール・ティムール広場

 ウズベキスタンのある地域を中心として14世紀後半に、ティムール朝というモンゴル帝国の半分に匹敵する巨大帝国を建国したサマルカンド出身の英雄で、ウズベキスタンの英雄として、多民族国家ウズベキスタンの国民の団結を象徴するものとして親しまれている。
 しかし、現在のウズベク人というのは、このティムール朝を滅ぼし、この地に住みついた人たちであるから、この点についてはウズベキスタンの人々がどう思っているのかは分からない。少なくとも、ウズベキスタンという地に偉大な歴史があったということは認められるだろうが。
 近くには、アミール・ティムール博物館があった。

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【2014.7.20】アミール・ティムール博物館

 しかし、休館日で中を見ることはできなかった。 

2014年 夏ウズベキスタン7泊8日
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 7月21日。ついに、ウズベキスタン旅行の最後の日となった。最後の日は首都、タシュケントを観光し、夕刻に空港へと向かい、次の日の早朝にソウルに到着するアシアナ航空の便に搭乗する予定だった。
 ウズベキスタンに友人がいる。ソウルで、韓国語を勉強する学校で知り合った友人だ。韓国には3万人を超えるウズベキスタン人が居住していて、留学生も少なくない。彼女は韓国から帰国し、現在、タシュケントに戻ってきているという。僕と、同行の友人と彼女の3人で会うことにした。
 朝食を待つ。7月15日の朝にも、同じ中庭で朝食を待った(#0048.タシュケントのゲストハウス - 「Mirzo B&B」)。

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【2014.7.21】宿にて

 朝食を食べているとゲストハウスのお父さんがこちらにロシア語で「девушка!」と大きな声で言った。「
お嬢さん」という意味だったと記憶している。どうやら彼女がこの宿に電話をして、私がその宿まで直接行くから我々に待っておくように伝えてほしいと電話をしたようだった。朝早くから宿にまでやってきてくれて、タシュケント市内を案内してくれるとは、この上なくありがたいことだった。
 朝食を食べ終え荷物をまとめていると、彼女が到着した。宿に荷物を置いて、外に出ることにした。1年7か月ぶりの再会で、とても懐かしかった。まさか、また会えるとは思っていなかった。韓国で知り合った韓国人ならまだしも、諸外国出身の留学生となると故郷に戻ってしまうと再開するのは難しくなってしまう。特にウズベキスタンのように、ビザを取得しなくては旅行に行けない地域となると、もっと難しい。
 同行の友人は韓国語が分からないから、英語で話すこととなった。その日初めて知ったのだが、彼女はウズベキスタンの大学で英語を専攻していたという。とても流暢に話すので驚いた。ウズベキスタンで彼女ほど英語を流暢に話す人はいままで見なかった。
 またこのことも初めて知ったのだが、彼女はウズベキスタン国籍保持者ではないという。先祖がタタールスタン出身のタタール人で、ソ連時代にウズベキスタンの地へと移住してきたが、ソ連崩壊後もウズベキスタンにとどまった一家なのだという。しかし、ウズベキスタン建国時、タタール人にはウズベキスタン国籍を与えられなかった。そうして、ウズベキスタンに居住権を持つ、無国籍者になってしまったのだ。彼女は、ウズベク語は分からない。ロシア語が母語である。そして、宗教は一応、イスラム教ではあるが、むしろ無宗教者のような感覚で生きているそうだ。この暑い国ではショートパンツと、ショートスリーブの方が気楽だときっぱりと言っていた。
 まず、テレビ塔(タシュケントタワー)へと行くことにした。行き先が決まると、彼女は突然、道路を走っている自家用車に合図をして止め、交渉を始めた。道路を走っている一般車を、タクシー代わりに利用することができるのか。しかし、これはなかなか外国人旅行者には難易度が高いと思う。ウズベキスタンの人間だからできることであって、ウズベク語もロシア語もできない僕らにはできない。200円~300円ほどで行ってくれるという。

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【2014.7.21】タシュケントタワー

 テレビ塔。高さは375mであり、中央アジアで最も高い建造物だという。建物に入ろうとすると案内員が、入場料が約1500円で、デジタル一眼レフで風景を撮影することも禁じられているがそれでもいいのかというので、入場することはしなかった。
 東京タワーよりも高いタワーがタシュケント市内にあるということを目で確認して、次の目的地に行くことにした。

2014年 夏ウズベキスタン7泊8日
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